川崎河港水門解説
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大正時代末期、川崎市は、物資の輸送をよ
り円滑にするため、古来より水運に利用されてきた多摩川の堤防の一角から内陸部に運河を開通させ、開鑿により生じる土砂で両岸を埋め立てて工場や住宅地に
するという大規模な運河・港湾計画をたてた。第一次世界大戦による好景気の中、商工業用地の拡大と効率的な運輸の実現を図り、川崎市の更なる発展を図ろうとの期待が込められた一大計画であった。
川崎河港水門は、この運河計画の一環として、当時の多摩川改修事務所長であった内務省土木技師金森誠之(かなもり しげゆき)により設計されたもので、大正15年(1926)11月に着工、当時の予算で54万円の費用と 1年半の歳月をかけて昭和3年(1928)3月に完成した。 この水門は、 2つの塔と、それをつなぐ梁、そしてゲートによって構成されている。渦巻き模様と飾り窓のついた塔の上には、当時の川崎の名産品であった梨・桃・葡萄をモ チーフとした巨大な彫刻が配されている。梨については、有名な「長十郎」が生まれたのは、水門からほど近い出来野であり、明治以来、外国産の桃を栽培する ようになったのは大師河原が日本で最初であった。また、近隣では葡萄の栽培も行われていた。塔の側面には川崎市の市章を巧みにあしらうなど、非常にユニー クかつ優れた意匠を特徴としている。現在は見ることができないが、完成当初は梁の側面にエジプト様式の舟がレリーフ状に描かれていた。 設計者、金森の手記によると、これらの装飾部分は建築家の久留という人物が技を振るったもので、「川崎に因んでその頭部への飾りを工夫」するなどして「土木屋の手には出来ない芸術的な」仕上りとなっている。 運河計画は、その後現在の川崎区を対角線に横切る3筋の大計画となり、昭和10年(1935)に運河幅員33〜40mの都市計画事業として内務省の認可 を得たが、当時は運河に対する建築制限の認識が道路と異なり薄かったため、予定地に工場や住宅が次々と建設されていった。満州事変、日中戦争の勃発による 軍需産業を中心とした好景気のもと、工場増加の傾向は顕著であった。また、第2次世界大戦の開戦により戦時体制はさらに強化され、当時の社会状況・国益に 合わなくなった運河計画は、9年後の昭和18年(1943)に廃止となった。
運河は水門から約220m開鑿されただけで中断してしまい、現在では埋め立てられて、水門に接続する部分約80mが舟溜まりとして残存するのみである。 多摩川のほとりに、工場群を背にして堂々とそびえる川崎河港水門は、“幻の大運河計画”の存在を物語る希少な歴史的遺産として、また、その優れた意匠から、多摩川河畔の景観に欠かせないシンボルとして市民に親しまれている。 |
川崎市教育委員会 指定文化財紹介HPより転記